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    sirokuma0922

    Author:sirokuma0922
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     「売れる」ゲームと「受ける」ゲーム。 

     Togetter - 島国大和氏:コンシューマゲームの利点とは。生き残る為に採るべき道とは。

    個人的な感想。って言ってもみんな薄々勘付いてることだとは思うけど、誰もファミリー向け、あるいはリアルグラフィクスなゲームなんて誰も求めていない。ざっくり言ってしまうと、こんな感じ。これでこのエントリに対する解答は終わってしまう。けどそれだと余りにも内容がないようなので、もうすこし続ける。

    俺がゲームをするときに何を求めているのかというと、高い没頭性が一番にある。RPGであったら登場人物に感情移入して喜怒哀楽を共に出来れば最高だし、SMGであったら強大な敵に対する圧倒的な無力感なんて味わえれば、それこそ醍醐味ってもんである。要するに引き起こされる感情のうねり具合が強ければ強いほどそれは良ゲームだと言える。

    そしてこのときに肝心なのは、昔のドット絵しか表示できなかったハードであっても、異様なまでの興奮と臨場感があったということだ。いや、もしかすると昔の媒体のほうがその要素は強かったかもしれない。本当に初期の頃のスパロボで、たかだか2バイトもないアイコンがHP10万を表示したときの絶望感ときたら・・・・・・。

    だけど一方では、リアルグラフィクス化が最近のハードのスペックに比例してぐんぐん上がっていく。せっかくあるんだったら最大限利用しないと、とでもいうかのように。傍から見てると一体誰と競争しているのか分からない。狭い業界内でお互いに誰得の境地へとバベルの塔を高く積み上げているような印象を受ける。いくら画質が向上したところで、喜ぶのはゲハ板の住人だけだから! 大半のライトユーザーや一般購買層はあぁ綺麗ねくらいの反応しかないから! 「やってみようかな」 には絶対に繋がらない。

    この本質的な矛盾で導かれたのが現在のコンシューマ業界の衰退。逆にアーケードがここまで隆盛してるのも同じ理由からだと思えて仕方がない。

    たとえばバーチャファイターがFF13レベルの画質になってリメイクされたところで、そこまでのヒットは望めないのは誰にでも予測できる。せいぜいチュンリーえろいなぁくらいの反応。だけどドット絵ポリゴン絵でもバーチャの新作が出たとなれば、これはヒットするような気がする。なぜか。

    鉄拳6をやっているときに、画面がどれだけリアルなのかを意識の内に入れてプレイしている人間はいない。それはバーチャ2においても同じで、ポリゴン絵きったねぇなぁと思う人間もいない。そこには 『いかに相手の耐久力を削るか』 『どうやって被ダメージを軽くするか』 程度の意識しか存在しない。ここに存在するのは筐体と、筐体に全神経を集中している自分のみだという意識しかない。そして大事なのが、この自分を“第三者視点から自覚してる”という意識。

    なにかに夢中になったとき、自分自身は熱中してる一方で、それを冷静に見つめる自分の存在に気付いたことがある人はたくさんいると思う。俺は楽器をやるからライヴのときなんかよくその感覚に陥るけど、そうでなくとも高校の部活の試合の時のことでも思い出せば一発だと思う。今思いついたけど、例としてもっともベストなのは事故や災害に巻き込まれたときの心理状態じゃないかな。

    で、そのときに一貫して同じことが言える。何かって言うと、目的がシンプルであるということ。そのために能動的な行動をする必要があるということ。そしてこれが出来なかったら全てが終了してしまうという観念が付きまとっているということ。この三つが共通していると思う。これをゲームに当てはめればいい。本質的な意味で簡単な操作を必要として、また理不尽かつ絶対的なゲームオーバーが存在する。

    まぁこのベストな理不尽度合いが探るのが難しいんだろうけどね。でも適度な恐怖は常習性を伴う。いつかどこかの偉人が 「快楽とは痛みを薄めたものだ」 なんて断言していたのと、根は同じものだと思えてなりません。

    だからそれに気付いた企業はファミリー向けジャンルを展開した。より操作が簡単で大人数で楽しめるようなゲームを。でもそれも見当違いな方向だった。

    ゲームを家族でやるってのがそもそもおかしい。それはもう同じ “ゲーム” というワードを冠してるだけで、意味合いはエンタテイメントを指してる。全然違う別物に成り果てた。それ以前に今までテレビ画面に向かってコントローラを握り締める習慣のなかった人間を取り込めるわけがない。もっというとゲームはもっと閉鎖的なものだからと頑として言い張りたい。ブラウン管と自分だけが向かい合ってる、これ以上ないほど閉じた世界。四人で64の大乱闘を対戦してても、会話はあっても周りの人間なんて意識に入ってるわけがない。でもそれが楽しい。きゃっきゃやるようなもんじゃない。ひたすらに自己と向き合うことで相互的に没頭され合うものだと信じて疑わない。

    つまり売れるゲームは、現状だとキャッチーなものでしかないのだ。悲しいことに。

    求められるのは即物的な数字であって、そのために回転の早いものが売れる。コンビニで清涼飲料水を買って飲むのと何にも変わらない。不味くはないし美味いものでもある。けれど深い感動はそこにない。売れるかつ受けるゲームを作るには、企業サイドの努力だけじゃ足りない。消費者サイドが 「本当に美味いものもちゃんとじわじわと味わえますよ」 と企業に確信させるような土壌を作らないといけないと思う。

    そのために企業がすべきこと。キャッチーなものも大事。なんたってビジネスなんだから。でもその一方で確実な “ゲーム” を作る。両方備えたものをなんて欲張っちゃいけない。水面下で土壌を作るための土壌を作る。長期的なスパン。簡単じゃない。それでもアーケードではできない、静かで誰もいない本当に自分の空間でのみできる、そしてそれゆえに相互で没頭していけるようなものを作るしかない。

    お手軽なものなんて本当は欲しちゃいないんだから。

     字の話。 

    癖字について。

    小さい頃から、母親に 「字は上手く書け、書けるようにしておけ、得になっても損にはならないから」 と諭され続けてきた。まぁだからといって習字教室に通わせられたりするようなことはなかった。でもその代わりというか、小学生から中学生にかけてくらいだったか、無意識に模写をしてしまう習慣があったのを覚えている。

    テストの成績云々以上に、解答欄の字が殴り書きであったり、留め跳ねが中途半端であったりすると怒られた。叱られた?いや、なんか口喧嘩してた記憶があるな・・・。要は読めりゃいいんだろ!みたいなことを言ってた気がするけど、今思い返してみれば諭してくれてありがとうと思う。ありがとうとは思うが、だったら習字教室に通わせろよ・・・、とも若干思う。

    そんな風にして独学で習字していったものだから、ちゃんとした書写なんてしたことがない。学校の授業で申し訳程度に写経したこともあるけど、あんなん筆ペン握って線をなぞる作業みたいなもん。だから 『何流を書写で学んだ』 なんてことは全然なく、普段接する明朝体だの教科書体だのを使って、見よう見まねで授業内容をノートしてた。

    そうすると本当に色んな書体が混ざってくる。2chのスレで見つけた我流の書体なんかも 「かっけー!」 って真似してたくらいだから、雑食にも程がある。どちらかというと絵を描く感覚に近い感じで字を書いてきた。たとえば何か上手いこと整わない字があったら、普通は出典をもってくるなりして、書写で身体に覚えこませる。けど俺は自分で勝手に整えて、自分が勝手にカッコイイと思う書体を作るようになっちゃった・・・と、この歳で気づいた。それに気付かされたのが、最初の画像にある “残” 。

    一般的な楷書体は①。草書体でも②くらい。でも俺のノートを見ると④。

    テレビの明朝体見てそのあと自分のノート見て鼻水吹いちゃうくらいやばい、やばい別物、むしろ日本語じゃない。自分でも気付いたら④になってたから、いつどのタイミングでとかは分からない。でも逆に③みたいな時期が途中にあったんだろうな、ということくらいは分かる。いや正確に言うと、ということくらいしか分からない。もちろん 『俺なりの草書体』 でしかないから、履歴書とか公文書とか書くときは流れで書かない。だけどそれ以前に、滅多に書かない字だと、あとで見返しても自分で読めなかったりするからなぁ・・・。

    どうりで貸したノートが即刻返って来るわけだ。

     文章の話。 

    文章の上手い、下手ってある。
    ざっくりとした言い方にも程があるだろうと、小さい頃から思ってた。

    運動神経がいいって言い方がある。料理が上手いって表現でもいい。
    こういうのは、聞いたときに気持ちがすっきりするから好き。
    だってパッとしたイメージが湧くじゃない。

    たとえば“運動神経がいい”のなら、何かしらのスポーツをこっちで勝手に連想して、その上で以って活躍する様子も想像する。
    そうでなくても爽やかな印象を受ける。
    言ってしまえば、わかりやすい。

    これは料理が上手いも同じ。
    いい感じで情報が漠然としてるから興味もそそられるし、初対面の人との会話で出た話題なら、
    「なにか仕事でもされてるですか?」
    なんて言って、話を膨らませることもできる。

    文章が上手い、下手はどうにも落ち着かない。

    読みやすいだとか、わかりやすいだとか、おもしろいだとか色々ベクトルがあるし、文章自体にしたって、いろいろな形式がある。
    作文や論文、小説みたいな物語文、あと批評。
    それ以前に横書き縦書き、ブログみたいに電子なのか、紙媒体でアナログなのか。
    はてぶなのかFC2なのか、twitterなのか・・etc。

    簡潔なイメージが湧かないで、ぶわっとした情報だけ押し寄せてきて、どうにも落ち着かなくなる。
    砂漠にぽつんと置いていかれた感じ。

    ・・・今回は段落の一文目だけで読み進められるようにしてみた。

     (夏目漱石+レジデント+ジブリ)÷3=こんな感じ。 

    ある山々に囲まれた細く入り組んだ盆地に、一匹の龍が住んでいた。

    山々とはいっても、そこまで高いものではない。
    せいぜい十センチくらいである。
    場所は周辺をコンクリートで固められた団地公園の草むら、その一角。
    たとえば犬や猫のような者からしたら、あまり山とは表現され得ないような程度の類の土塊である。

    周りからは幼児達が元気よく走り回る声が聞こえてくる。
    遠くのほうでは、きっとその母親達が談笑しているのだろう、風に乗ってからりとした笑い声もする。
    木立が立ち誇っているために喧騒の凪ぎ地となっているこの場所は、巨大な動物に荒らされる恐れもないのだ。

    ふと、落ちているパン屑に群がる横着者たちの影を見つけた。
    夢中になっていることもあり、彼らに直接は声を掛けない。
    その代わりひよひよと頭上を飛ぶ小鳥たちを目で威嚇しておいた。
    仲間の注意は身内でするものだからだ。
    そして、その龍は小さく嘆息した。

    投げやりに体の下のほうを見やると、頸椎から腰椎ぐらいまでは 「肉」 がごっそりと抜けている。
    尻尾にはわずかに残ってるようであるが、途中でどこかが欠けたら、胴体はそのまま真っ二つになってしまうだろう。
    足に関しては動くし、歩くだけでなく飛んだり着地することにも耐えられると思うので、その点は幸いである。
    ただ感覚は既に無い。

    唯一の救いは、まだ頭がしっかり働いているということくらいであろうか。
    昨日の食事も覚えているし、なんなら一年前の今日の食事だって思い出すこともできよう。
    自分が霞を食んで生きている身の上だということを、しっかり記憶しているからではあるが。

    それにしても脳ばかり元気であっても仕方がない。
    老獪ならぬ老塊の身となっては、何の為に生きているかも分からなくなってしまう。
    生来ワガママは言わない性分であるのだから、せめて我が侭で過ごさせて欲しいものである。

    もう幾度繰り返したのかもわからない観察を、また一通り終えると、なにやらびいんと響く羽音が向かってくる。
    さて何の音かと振り返ってみれば、最近とんと顔を見せなかった妖精であった。
    予想するに次の為政者を決めるためのご意見番巡りであろう。
    妖精は目の前の切り株にしゅるりと舞い降りた。

    「お久しぶりです」
    「やあ、たしかに久しぶりだ。下手をすると数ヶ月になるかもしれない」
    「かもしれません。怖いですねえ。近頃は時の流ればかり早く感ぜられて、得をしたもんだか損をしたもんだか」

    この調子である。
    挨拶に来なくなったことを軽く当て付けたつもりであったが、なんとも自身の嘆きにすり替えられてしまった。
    昔からこいつはひょうひょうとしていたが、ここ数年来はそれに磨きが掛けられたようにも思える。
    やれ、あらそうですねえだの、やれ、かもしれませんねえだの、語尾にねえの付かなかった試しがない。

    一度、紋切りでしゃっきり話せと問い詰めたことがあったが、
    ひゅるりと口笛を吹かれた次の拍子に、別の話題で会話を続けている自分に気付いたことを覚えている。
    馬鹿にしているのかとヤカンばりにぴいと怒鳴ったが、翌日また何食わぬ顔で挨拶に来たときはさすがに感心したものだ。
    これほどいい加減なやつが仲間内では出世頭だと呼ばれているようだから、世間の作りも意外と適当なものかもしれない。

    「ところで私、為政者に関してご意見巡りを任ぜられまして」
    「ほう。やはりそうか。だと思ったが、その腹では自分の名前が出ることでも期待しているんだろう」
    「いやいや、なんと申しましょうか、今回は例年とすこしばかり形式が異なりまして」
    「ふん」
    「このたびは座談会より上の役職をなくすことについて、ご意見を戴きに参りましてねえ」
    「なんだと」

    腰のあたりの骨に、ひびの入る音を聞いた気がした。

     一月ぶりらしい。 

    広告が出されるようになるまで放ったままだったことにびっくりした。
    これは多分、というか確実にtwitterのせい。
    思ったことを好きなときに発信できるってすげえなと思う。

    何か思ったとき、誰もそばにいなかったら普通は自身へ内向していく。
    あるいは、誰にいつどういうふうにして話そうと考えたりもする。
    だけどtwitterはそんなの関係なく、好きなときに好きなことを発言できるし、
    なにより“ひとりごと”って建前だから、一応はどんなことだってつぶやける。
    でも発言するときは 「誰かが聞いてくれてる」 という確信と一緒に書き込んでいる。

    もっと言うならmixiは空恐ろしいところだと思う。
    一日の半分はチェックしてますという人も、俺の知り合いには(マジで)いるし、
    そうでなくても二三日に一回はログインしますって人がたいがい。
    そうするともう何年も会ってないような人の消息が手に取るように分かる。
    個人的な感覚からすると、これがとても気持ち悪い。

    なんというか常に「見てる・見られてる」感覚とでも表現しようか。
    ある意味で村社会みたいなもんだよね。
    ネットというのは形のない、存在もしない、あくまでアングラ的な色合いが強かったはずだけど、
    いつのまにかリアルとネット、そして本当のアングラという3つの社会が構築されてるような気がする。
    またはネット自体の社交場にも表と裏というものが出来ているといってもいいのかもしれない。

    どんな形であれ、本音と建前の両方を知れてしまう環境にいるのは、精神的にとても悪い。

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