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    sirokuma0922

    Author:sirokuma0922
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     コンテンツに関して思った二つのこと。 

     G.A.W. - [そのた長文]寺ズッキュン! 俺ズコー!

    この人はおいしそうだなと思ったネタにすぐに飛びかかり、食い散らかして進んでいく。すげえなぁおそろしいなぁとその勢いに呆気に取られるけど、ふと通った道を見てみると、食いかけがものすごい量落ちてる。しかもうまそうなトコだけしか食ってない。今回もそんな感じ。とはいってもまだまだ食えるトコがあるので、すこしもらおうかなと思った。


     でも、なんだろうなあ、ここまで文章重ねてなお表現できない違和感ってのは。萌え仏像いいけど、これ拝んじゃったらだめでしょって気がする。だって、人が作ったフィギュアをお寺の住職さんが拝むことによって、ここでは「仏像」たりうる力を与えてるっていうことになる。これ、寺そのものが「拝んでなんかする」っていうシステムでしかありませんよーっていうことの自己表明じゃないですか。あるいはこうもいえる。仏像が本来は「どこかに存在する人智を超えたもの」の力を内包した像だとしますよね。でもここでは「拝む」という行為によって、フィギュアが仏像化するっていう現象が起きてる。そしてそのカラクリそのものは万人の前にあきらかです。



    “仏像を拝むのは許される気がするけど、フィギュアを仏像として拝んじゃダメな気がする。”
    つまり 『鰯の頭も信心から』 を、寺屋が言っていいのかという話。

    思うに、これは寺というか、仏教に裏切られているのと同じようなものだからではないだろうか。仏像ではなくフィギュアを拝む。建前の話でも、それによって御利益があるということになってしまったら、それは順序が違う。最初に形のない、すがる対象足りえる存在があり、それを信心しやすいよう視覚化したものが仏像であって、聖職者が仏像を拝むのは仏や神様に対して正しいアプローチの仕方を知ってるから。ということになってるから。

    寺や神社で拝んだものが、どんなものでも信仰の対象になってしまうのなら、俺達は何をありがたがって拝んでいるのだろうかという疑問が湧く。もしそれが堂々と行われれば、仕組みとしては壷や印鑑とか掛け軸を高額で売りつけるのと変わりませんよと宣言されたも同じ。俺はアニミズムなのでここらへんは同一のものに見えて仕方がないんですが、新興宗教と仏教の違いってのはここにあるんじゃないの。それこそ 『 「なにか人智を超えたもの」 が背後に存在してる』 という前提が担保。

    たとえば新興宗教と仏教とで何が違うのってなったら、一番大事なポイントとなるのは歴史。もともと形もない目にも見えない、存在を確信するのが難しいものを流行らせようとするなら、それが信頼されてきた時間の長さを証拠、あるいは担保として宣伝するしかない。加えて損がないのも大事。良くて得になる、悪くても得にならない程度で済ますことが出来なければ、もともと存在しないものに対価を払おうとはしない。ここらへんがわかれば、 「最初は拝むだけでいいですから」 というのもわかってくる。だから拝むだけで言いですからに、この壷を、というフレーズが着くのは、広め方としては間違ってる。商売のそれとしては合ってるけど、宗教のそれとしては間違ってる。

    じゃあ逆に歴史がまだ浅かったころはどうなのだろうか。

    場所を媒介として想像が発生する。そしてその想像にどれだけ辻褄を合わせられるかでコンテンツの寿命が決まる。ここでいうコンテンツは創造物全てを指す。宗教、漫画、小説、映画。販促の単体キャラクターなんかもそうなんじゃないかと思う。たとえばイエス・キリストなんか単体キャラクターの成功例だよね。この表現ちょうおこられそう。ただ辻褄あわせの数が多ければ多いほど伸びるのは寿命でしかない。コンテンツを楽しむ人間の絶対数を増やすためにはキャッチーなものでないといけない。この二つは縦と横のベクトルで表すことが出来る。つまり長く流行るものには膨大な説明書がセットになっていなければならない一方で、それはアバウトなつくりにもなっていなければならない。当然、曖昧なところは紛糾を呼ぶが、なにぶん説明書が曖昧なので、解釈の上手い意見が通る。通った意見は新しい事実として説明書に追加される。そしてこんな事実もあったのかと驚きを呼び、それが繰り返され、コンテンツとしての鮮度はいつまでも保たれる。自己完結のリピート。まぁ膨大かつ曖昧な説明書を作るなんて、ものすごい才能と努力がいると思うけど。

    でもその説明書を作る手間を面倒くせえってなって投げちゃったのが、最近流行ってるSNS形式のコンテンツ。あれは土壌だけ用意すれば、あとは勝手に自己完結を続ける。まだ現れてから数年しか経ってないけど、だから俺はこのSNS形式から、また新しい永久機関のコンテンツが出るんじゃないかとわくわくしてる。ようするに永遠に続くような社交場ってどんなんだろうと。

    閑話休題。

    数段落ほど余計な文章を挟んだけど、MK2さんの結論にはすこし違和感を覚える。というかなんか面倒になって投げた臭がする。


     ああそうか。ここまで書いてわかった。萌えコンテンツを導入した寺っていうのは、寺のパロディなんだ。寺のメタですわね。だとすると、そこに死者を管理したり、ご利益を与えてくれる「背後のなんか」の存在が入る余地はない。明白ですからね。

     とはいえ、実は逆に「お寺だからこれ成立した」っていう気分もちょっとあるんですよね。そっちについてはめんどくさいから考えないけど。過剰な違和感の演出っていう以外にも理由があって、その理由によって「お寺だからこそ寺ズッキュン成立した」っていう可能性。こっちはちょっと感覚でしかなくて、言語化の手がかりが見つからない。



    了法寺は元がお寺なら、それはメタにもパロにもならない。マックがウェンディーズの真似するようなもん。ちがうか。本職さんが本職でふざけたところで、それは文字通りふざけるなだ。全然関係ない畑の人間の真似をすることで初めて、メタやパロや皮肉になりえる。だから 『お寺だから成立した』 という後者のほうに理由があるはず。そして俺はこれを前者と全く逆の理由からだと考えたい。つまり 『萌えのパロディなんだ。萌えのメタ』 なわけで、 『そこに死者を管理したり、ご利益を与えてくれる「背後のなんか」の存在以外が入る余地はない。』 と。マックが31の真似してアイスフェアやりますよみたいなもん。ちなみにマック連呼してるけど好きなわけではない。年に5回くらいしか行かない。

    寺は死者を正当な形で弔わなければいけないという前提がある。そこはたとえ冗談であっても侵されてはいけない。これがスタート地点だというのが答えになるのではないだろうか。なぜならそのスタート地点があるのにも関わらず、寺や神社という本来侵されてはいけない領域が、いわゆるメタ的パロ的 “萌えコンテンツ” として消費されているから。今では半分当たり前みたいな節もあるけど、実際、相当に衝撃的なことのはず。神聖な領域をサブカルとして消費する。俺がこれを見たのはたしか小学二年だかのときに見たセーラームーンが初めてだったと思うけど、子供心ながらに、そういうことってしていいものなのかとびっくりした。たぶん人類史で初めての出来事ではないだろうか。だって神聖な領域であるがゆえに、こういうことが今まで起きえなかったわけでしょう。

    そして、今度はそのメタ的パロ的 “萌えコンテンツ” を、寺社がメタ的パロ的に再消費する。一見、原点に戻っただけのようにも思えるけど実は違う。これは回帰ではなくて、再包括。他には例を見ない形での、入れ子構造とも言える二重のメタファーがここに発生している。この入れ子的なメタ的パロ的コンテンツの構造によることで初めて、上手いこと 『侵してはいけない領域』 を避けて通っている。というか初めから通っていない。メタ化されたコンテンツの、さらにそのネタ元が 『侵してはいけない領域』 そのものだからだ。なぜこんなに都合良くいくのかといえば、これがネタ元に足し算をしていくタイプのメタ化パロ化の手法だから。もしこれが引き算式であったら、二回目は上手くいっていなかっただろうと思う。というかすごい批判を食らってそう・・・。

    というわけで了法寺が寺社として成り立ってる理由でした。冒頭に散々なこと書いてるけど、こうして見てみると俺自身もそうだな・・・。ていうか閑話休題の前四段落くらいは、思いついたことを言いたいだけの脱線だった。

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     「売れる」ゲームと「受ける」ゲーム。 

     Togetter - 島国大和氏:コンシューマゲームの利点とは。生き残る為に採るべき道とは。

    個人的な感想。って言ってもみんな薄々勘付いてることだとは思うけど、誰もファミリー向け、あるいはリアルグラフィクスなゲームなんて誰も求めていない。ざっくり言ってしまうと、こんな感じ。これでこのエントリに対する解答は終わってしまう。けどそれだと余りにも内容がないようなので、もうすこし続ける。

    俺がゲームをするときに何を求めているのかというと、高い没頭性が一番にある。RPGであったら登場人物に感情移入して喜怒哀楽を共に出来れば最高だし、SMGであったら強大な敵に対する圧倒的な無力感なんて味わえれば、それこそ醍醐味ってもんである。要するに引き起こされる感情のうねり具合が強ければ強いほどそれは良ゲームだと言える。

    そしてこのときに肝心なのは、昔のドット絵しか表示できなかったハードであっても、異様なまでの興奮と臨場感があったということだ。いや、もしかすると昔の媒体のほうがその要素は強かったかもしれない。本当に初期の頃のスパロボで、たかだか2バイトもないアイコンがHP10万を表示したときの絶望感ときたら・・・・・・。

    だけど一方では、リアルグラフィクス化が最近のハードのスペックに比例してぐんぐん上がっていく。せっかくあるんだったら最大限利用しないと、とでもいうかのように。傍から見てると一体誰と競争しているのか分からない。狭い業界内でお互いに誰得の境地へとバベルの塔を高く積み上げているような印象を受ける。いくら画質が向上したところで、喜ぶのはゲハ板の住人だけだから! 大半のライトユーザーや一般購買層はあぁ綺麗ねくらいの反応しかないから! 「やってみようかな」 には絶対に繋がらない。

    この本質的な矛盾で導かれたのが現在のコンシューマ業界の衰退。逆にアーケードがここまで隆盛してるのも同じ理由からだと思えて仕方がない。

    たとえばバーチャファイターがFF13レベルの画質になってリメイクされたところで、そこまでのヒットは望めないのは誰にでも予測できる。せいぜいチュンリーえろいなぁくらいの反応。だけどドット絵ポリゴン絵でもバーチャの新作が出たとなれば、これはヒットするような気がする。なぜか。

    鉄拳6をやっているときに、画面がどれだけリアルなのかを意識の内に入れてプレイしている人間はいない。それはバーチャ2においても同じで、ポリゴン絵きったねぇなぁと思う人間もいない。そこには 『いかに相手の耐久力を削るか』 『どうやって被ダメージを軽くするか』 程度の意識しか存在しない。ここに存在するのは筐体と、筐体に全神経を集中している自分のみだという意識しかない。そして大事なのが、この自分を“第三者視点から自覚してる”という意識。

    なにかに夢中になったとき、自分自身は熱中してる一方で、それを冷静に見つめる自分の存在に気付いたことがある人はたくさんいると思う。俺は楽器をやるからライヴのときなんかよくその感覚に陥るけど、そうでなくとも高校の部活の試合の時のことでも思い出せば一発だと思う。今思いついたけど、例としてもっともベストなのは事故や災害に巻き込まれたときの心理状態じゃないかな。

    で、そのときに一貫して同じことが言える。何かって言うと、目的がシンプルであるということ。そのために能動的な行動をする必要があるということ。そしてこれが出来なかったら全てが終了してしまうという観念が付きまとっているということ。この三つが共通していると思う。これをゲームに当てはめればいい。本質的な意味で簡単な操作を必要として、また理不尽かつ絶対的なゲームオーバーが存在する。

    まぁこのベストな理不尽度合いが探るのが難しいんだろうけどね。でも適度な恐怖は常習性を伴う。いつかどこかの偉人が 「快楽とは痛みを薄めたものだ」 なんて断言していたのと、根は同じものだと思えてなりません。

    だからそれに気付いた企業はファミリー向けジャンルを展開した。より操作が簡単で大人数で楽しめるようなゲームを。でもそれも見当違いな方向だった。

    ゲームを家族でやるってのがそもそもおかしい。それはもう同じ “ゲーム” というワードを冠してるだけで、意味合いはエンタテイメントを指してる。全然違う別物に成り果てた。それ以前に今までテレビ画面に向かってコントローラを握り締める習慣のなかった人間を取り込めるわけがない。もっというとゲームはもっと閉鎖的なものだからと頑として言い張りたい。ブラウン管と自分だけが向かい合ってる、これ以上ないほど閉じた世界。四人で64の大乱闘を対戦してても、会話はあっても周りの人間なんて意識に入ってるわけがない。でもそれが楽しい。きゃっきゃやるようなもんじゃない。ひたすらに自己と向き合うことで相互的に没頭され合うものだと信じて疑わない。

    つまり売れるゲームは、現状だとキャッチーなものでしかないのだ。悲しいことに。

    求められるのは即物的な数字であって、そのために回転の早いものが売れる。コンビニで清涼飲料水を買って飲むのと何にも変わらない。不味くはないし美味いものでもある。けれど深い感動はそこにない。売れるかつ受けるゲームを作るには、企業サイドの努力だけじゃ足りない。消費者サイドが 「本当に美味いものもちゃんとじわじわと味わえますよ」 と企業に確信させるような土壌を作らないといけないと思う。

    そのために企業がすべきこと。キャッチーなものも大事。なんたってビジネスなんだから。でもその一方で確実な “ゲーム” を作る。両方備えたものをなんて欲張っちゃいけない。水面下で土壌を作るための土壌を作る。長期的なスパン。簡単じゃない。それでもアーケードではできない、静かで誰もいない本当に自分の空間でのみできる、そしてそれゆえに相互で没頭していけるようなものを作るしかない。

    お手軽なものなんて本当は欲しちゃいないんだから。

     便利だから好きだとは限らない。 

    mixiをあまり好きになれない。
    正確にいうと、自分の周りでmixiイコール自分と勘違いして頑張っている人が目に付くのがイヤ。

    mixiというのは空恐ろしいところだと思う。
    ネット名義でアカウントを作っているとそうも感じないけど、リアル名義でアカウントを作っていると、
    行動すべてを公開されているような気がしてくる。
    「最後に~分前にログインしました」 「あなたの足あとは~」 「紹介文では~」

    SNSサイトというのは基本的に自己発信のツール。
    mixiはその中でも強制的に、半ば無意識的に自己発信させてる。
    好きなコミュニティに入ってマイミク申請をしてアプリを使って遊び、何よりもその行動情報すべてが他人に公開されている。
    それはあくまで自分自身の一部でしかないはずなんだけど、気付くとmixiの中に自分を構成しちゃってる。
    という勘違いする。
    だからマイミクの数を増やしてボイスのイイネに一喜一憂し今日も充実してました発言をするために躍起になる。

    それが良いことか悪いことか俺には判断つかないけど、少なくとも理解できないだろうなと思う。
    価値観というか評価基準がそこに置かれてる人間と話して、果たして話が噛み合うか分からない。
    「マイミクの数少ないとか友達少ないね(笑)」
    逆に言えばマイミクしてれば友達なのかと問いたいけど、そういう奴は手当たり次第、
    会ったことも会話したこともない人間に申請を送ってその 「マイミク」 って奴の数を増やしてる。
    ここでもう価値観が違うなと感じる。

    正直、普段は会話もしない、もしくは会話も弾まないのに、絵文字で大量に飾って連絡とって来る相手とは関わりたくない。
    そんなネット上のバーチャルな人格(文字・数字で定義された不特定多数に曝される人格)に比重を強く置く人間は、
    俺と同じかそれ以下の世代の人間ほど割合が高い。
    こういうツールが後から出現したことでそれを外部と捕らえているか、早くから接していて内部と捕らえているか。
    違いはそんなところ?

    まぁ普段文句を言わないような俺がこんなこと言ってるあたり、自分がこの暑さでいらいらしていることはわかる。

     18歳のワークワーク。 

    友達のバイトの話を聞いていて、3日でやめるとか一ヶ月でやめるとかいう話を、案外多く耳にして驚いた。それが一般的なのか知らないので、俺の常識がおかしいのかもしれないけれど、そんな超短期でやめるってどうなのって思う。やむをえない理由があれば別だけど 「自分に合わない」 とか 「一緒に働く人がイヤだった」 とかが多い。社員ほど重くないとはいえ、一応ちゃんとした契約を交わしてお互いの同意でもって働き始めたわけだし、責任的にどうなのかっていう。

    自分と合わないところに働き始めてしまったとしたら、それは下調べ不足だろうし、何よりその理由でもって自分と合うバイトに当たるまで同じことを繰り返していたら、相当な手間ではないだろうか。ましてそういう人は社会人になっても就職で同じことをやるのかと疑問を持つ。やらないと言ったとしても、我慢の練習が出来てないから打たれ強くはないよね。

    俺の働いているお店は良い意味でも悪い意味でもバイトと正社員の境界線が曖昧で、どうも他のバイトと比べるとそれなりにキツいらしい。飯の席でホールの先輩がそう言っていた。今まで郵便局バイトしかやったことがないから俺の中では他と比べようもないけれど、厳しいからイヤって理由でやめたホールの同期の人がいるから多分その通りなんだろう。ていうかホールで厳しいとか言ってたら厨房とかどうすればいいのか。

    社員が下手に立つこともあったり、バイトが料理長やってたりするそんな職場だと、同じ作業をしても給与体系が違うんだなということを痛切に感じる。

    バイトというのは労働を対価として稼いではいない。むしろこちらの時間を切り売りしてると表現したほうが正確なのかもしれない。だからバイトという前提がある限り誰が働いても報酬は一緒。働く質や量に関しても変わりはなくて、原則は時間×時給イコールの式で導き出されたお金が支払われる。つまりどんなに怠けたところで、最低限やることさえやってれば、叱られはすれど給与は貰えるわけだ。

    ここで一つの矛盾が生まれる。雇用者としては、買い取った時間の中で出来るだけ効率的に働いてほしい。逆にバイトとしては、売った時間のなかで出来るかぎり怠けたいというもの。ここでのバイトの怠けたいっていうのは俺自身の心持ちではなくて、共産とか社会とかの結果論からの全体的な傾向の話。先売り形式の後払い制を取っているからこの傾向になるんだと思う。

    この状況で起こってくるのが両者の妥協点の探り合い。現状だとこの場合で優位に立つのがバイト側。下手な話また別のバイト口を探せばいいけど、バイト側がこういう心持ちで仕事を探してる時点で、雇用側はバイトがやめないようにある意味で機嫌を取らないといけない。でもこれっておかしいんじゃないかなと思ってここから熱く語りたいんだけどなんか長くなりそうだしおなか減ったからまぁ今回はここらへんで。稀に見るぐだり具合。

     疑問に対するアクションについての考察がどうの。 

    最近見た記事の中で久しぶりに実際的なテーマについて語ってたので、つい熟読してしまいました。
    Togetter - まとめ : dankogaiの「こうするとどうでしょう?」と「どうしたらいいでしょう?」の違い講座

    誰かに聞いた話や本に書いてあった話、ネットに書いてあった話を、さも自分の言葉かのように語る若者が多いねという感想に対して、いや実際のところは自分の頭で勝手に考える連中が多いよそれが問題なんだよ、というツッコミから始まったエントリ。まだ18年しか生きてきていない自分にとっては、ここ6年間で主要なテーマの一つです。まぁ多分あと十数年は主要なテーマであり続けるんでしょう。・・・・ふと思ったけど18歳だからどうのって導入を最近使いまくってる気がする。

    『どうすればいいでしょうか』 と 『こうすればどうでしょう』 のどちらが好ましいとか優れているとかを一概に決め付けるのはどうだろうなと思う。質問するということは分からないことがあるわけで、それは同時に前提として質問した内容を吸収・記憶する意思があるはずだ。となると結果論からすれば、より効率的な方法を選択できれば、それはイコール優秀だとか覚えがいいとか言われることになる。ここでの効率とは覚える速度と量のこと。覚えた物事を応用できるかどうかは機転が利くとか別の評価ベクトルになるので置いておきます。

    『こうするとどうでしょう』 がなぜ被質問者にウケるのかといえば、そこに覚えようとする意思が見えるからであると俺は思う。一般的な話として、人間はイメージ記憶と呼ばれる関連付けカテゴリ付けして覚える方法が、もっとも記憶が定着するといわれている。たとえば 「最初に仮解答を作ってみたが失敗だったので、真解答と照らし合わせてみた結果から過程Aと過程Bでミスしているとわかった」 場合は一連のストーリーとして記憶しているのだ。だから次回また同じ行為をする際は、過程Aで思い出し過程Bでも思い出しと、それぞれ個々のパーツからなぞっていくことで正規のレールを通って行けることとなる。

    しかし逆に 『どうすればいいでしょう』 は、少なくとも回答を得る段階までは、一切の思考プロセスを挟んでいない。だからあまりウケが良くないのではないかと思う。覚えようとする意思を経験則としてそこから見出せないからだ。自分個人に限った話をするならば、 『どうすれば』 で解答をもらって丸暗記をしようした場合、たいがい次回時にはコロッと忘れている。個々をスッ飛ばして全体像だけを覚えるなんて芸当は大抵の人には難しい。だが才能というか能力差というものは存在するわけで、たまにこの方法でも一回覚えたことは忘れないという、いわゆる覚えの良い人というのもいるのである。そしておそらくこの方法も細かく分類分けができる。文字通り丸暗記するタイプや、解答を得てから問題まで逆算して過程・根拠を構築してしまうタイプ、あるいは過程も全部聞いてそれすらも暗記してしまうタイプなどなど。

    要するに自分に合った方法を探して用いればいいのだ。全体の手間やコストなどを加味して、一番手間がかからず多くを素早く自分の知識として貯金できる手段を。まぁ場合によっては 「こいつ質問ばっかりでうぜぇな」 とか思われることもあるだろうが・・・。

    間違えを修正して正解を学んだ場合のほうが仕組みを知っている分だけ応用が利く、なんて言い出す人もいるかもしれない。だが果たして本当にそうだろうか。実は応用が利く例として上げた人物が 「失敗から正規のルートへ修正するパターンを引き出しとして多くもっている」 人であったりはしないだろうか。もちろん純粋に応用や機転が利くような人も存在するのは言うまでもない事実である。応用が利いているのか引き出しを多くもっているのかを見極めることは、とても難しいしメリットの少ないようなことに思える。大事なのは他の部分だ。

    疑問と解答の丸暗記から過程を見出せて応用を聞かせる人であれ、失敗し続けた結果によって最良の修正過程をたくさん身に付けた人であれ、有能な人間に変わりはない。大事なのは掛かる時間よりも、習得に用いる時間をどれだけ節除出来るかではないかと思うのだ。時間をかければ誰でも有能な人間には成れる。有能な人間になるまでに掛かった時間の観察から、人は真に優秀かそうでないかを判断されると思うのだ。

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